ツェッペリン伯号のエンジンには、機体の総重量を軽くするため、重い液体燃料ではなく「ブラウガス(オレフィン系炭化水素、パラフィン系炭化水素及び水素を主成分とするガス)」というガス体燃料が使われていた。米海軍当局より燃料供給を委託されたカーバイド・アンド・カーボン・ケミカルズ社(現ユニオンカーバイド社)は、同社の「パイロファックスガス」を日本へ送り、そこで水素ガスと混合して飛行船用の燃料として供給することで対応した。
この「パイロファックスガス」は、同社が米国内で炊事用に製造・販売したガスの製品名であるが、成分としてはプロパンガスであったことが後に判明する。これがわが国で初めてLPガスが使用された事例となった。
ツェッペリン伯号
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急速に緊迫化する国際情勢の中、ガソリン等の液体燃料不足への対応として、政府はプロパンやメタンを自動車用燃料として使用するための研究を開始する。そして1938年、内務省より圧縮ガス(メタンガス)及び液化ガス(プロパンガス)を自動車用燃料として使用することを認める通牒が発せられ、LPG車が登場することになった。1941年時点の生産台数は約600台だった。
1950年代に入りLPガスの需要が急激に増加する一方、供給は依然として不安定な製油所の生産品に依存していた。当時「石油精製の副産物」という位置付けであったLPガスは、製油所の生産計画によってその生産量が決定され、また貯蔵用のタンクも未整備であったため、夏場の不需要期には供給過剰、一転して冬場の需要期はガス不足になるという悪循環が恒常化した。
このような状況に対応するため、1960年ごろからLPガスの輸入に関する具体的な計画案の検討が開始され、1961年にゼネラル瓦斯「豪鷲丸」が川崎に帰港し、LPガス輸入の第一号となった。その後各社とも続々と輸入を開始したことにより、供給量は順調に増加した。
わが国のLPガス輸入第1船となったゼネラル瓦斯「豪鷲丸」
世界で最初の冷凍LPガス専用船「ブリヂストン丸」(ブリヂストン液化ガス)
日本石油瓦斯「日石丸」
需要が急激に拡大し供給不足が深刻化する中、大規模な海員ストライキが発生し、LPガス船15隻が停船、荷揚げの停止に至る事態となった。これにより、ガス不足がさらに悪化した。
政府はこうした不安定な需給状況を緩和するため、「LPガス需給安定法」策定の準備に着手するが、消費者、業界からの強い反対にあい、立法化は見送られた。
1カ月に及んだ海員ストライキ
LPガスの普及拡大に伴い、消費者による事故が急増したことを受け、保安の確保と取引の適正化を目的として「液化石油ガスの保安の確保及び取引の適正化に関する法律」が成立した。これによりLPガス販売事業は「事業許可制」となり、一般消費者等の保安の確保、製造事業者や器具製造事業者に対する技術基準の遵守、LPガス規格表示の義務化などの規制も併せて課されることになった。
液石法が成立した衆院本会議(1967年12月23日)
液石法を巡っては、小規模導管供給に関する都市ガス業界との対立が勃発した。条文では「液化石油ガス小売り事業とは、一般消費者等に対して液化石油ガスを販売する事業(一般の需要に応じ、導管により液化石油ガスを販売する事業を除く)をいう」とされていたことに対し、「都市ガス事業者以外は小規模導管供給を行うことができなくなるのではないか」と危惧した販売事業者から、大規模な反対運動が巻き起こった。
この問題は、1970年のガス事業法改正において、消費者数が70戸以上の場合を簡易ガス事業(ガス事業法の範疇)とすることで決着した。
全国業者総決起大会(東京・久保講堂、1967年4月)
第一次オイルショックにより、LPガスの価格も急騰した。1973年12月時点で12,368円/トンだったLPガスのCIF価格(輸入価格)は、その2カ月後には25,232円/トンと、一気に2倍以上に跳ね上がり、小売価格も急騰した。
これに対し政府は「国民生活安定緊急措置法」を制定し、値上がりの激しい品目を指定して標準価格を設定することを決定。これにより家庭用LPガスの標準価格は10kg当たり1,300 円(北海道は1,500 円)に設定された。この金額については業界内から大きな批判の声が挙がったが、パニックが沈静化する1976年4月まで継続された。
1974年に始まったLPガス標準価格は1976年まで続いた
従来の液石法では、ガスメーターについて促進が謳われてはいたものの明文規定はなく、設置費用の負担の問題もあり普及が進まなかったが、消費者団体からの非常に強い要望により、ついに法制化された。これによりガスメーターの設置率は順調に増加し、1996年にはほぼ100%を達成、それに伴い消費者事故件数もピーク時の1/10以下にまで減少するなど、消費者事故の防止に大きな成果を挙げた。
1973年2月施行の省令改正でガスメーターの設置が義務付けられた
本事業は、消費者保安の一層の向上を目的として、すべての家庭用LPガスの設備点検を行い、不良があった場合にはその改善を図るという、足掛け3年に亘る官民を挙げての一大事業であった。
1978年7月から3年間実施されたLPガス保安総点検事業
1979年に発生したイランの政変をきっかけとして、OPECはメジャーに対し再び石油の供給削減を実施、第二次オイルショックが発生した。これにより年初は120ドル/トン程度だった原油FOB価格は、年末には倍の240ドル/トンにまで高騰。さらに省エネ・代エネ政策の推進やLNGへの転換も相まって、LPガスの需要は1980年に歴史上はじめてのマイナス成長を記録した。
こうした状況の中、LPガスの安定的な供給体制を確立するための方策として、低温貯槽によるLPガス備蓄の検討が開始された。
そして1981年4月、石油備蓄法改正案が国会で成立し、7月1日より施行された。LPガスの備蓄日数は石油備蓄との整合性を考慮し、1981年度の15日分から毎年5日分を積み増して、1988年度末に50日分の備蓄達成を目標とした。
1987年4月に操業を開始した大分共同備蓄基地
第二次オイルショック以降、OPEC等産油国側の攻勢により石油価格は依然として高止まりが続いていた。そのような中、LPガスでも国際的な価格主導権を握ろうとしたペトロミン(サウジアラビア石油鉱物資源公社)は、価格決定の方式として新たにトリガー方式の導入を公表した。 この方式は、買い手側による段階的な契約終了を制限するという、産ガス国側にとって極めて有利な方式であった。
さらにペトロミンは、OPECの原油減産と価格の引き上げを受け、供給量の大幅削減(契約量に対し50%~100%カット)を通告してきた。これへの対応として日本の輸入各社は、アメリカ、北海などからのスポット輸入により当面の供給は確保したものの、他の燃料に代替が可能な産業用ユーザーへの供給カットは実施せざるを得ない状況となった。
1986年には湯浅会長(右)がペトロミンのタヘール総裁を訪問
11月22日の正午過ぎ、静岡県掛川市のレクリエーション施設でプロパンガスの爆発事故があり、鉄骨平屋建ての建物が炎上、死者14名、重軽傷者27名を出すLPガス史上最悪の大惨事となった。原因はコックの閉め忘れによるガス漏れで、静岡県警の調べでは、事故発生当時全98個のコック中29個が未閉止状態となっていた。
この事態を重く見た通産省は「つま恋LPガス事故対策委員会」を設置し、翌年4月に主に業務用の特定供給設備に対する対策の強化が必要とする報告書を取りまとめた。この事故をきっかけとして、LPガス保安は「消費者に注意を促して確保する保安」から、「操作を誤っても事故に直結しない保安」へ転換していくことになった。
政府はエネルギー対策の財源不足を解消するため、石油税の増税と対象範囲の拡大(LPガスとLNGを新たに課税対象とする)方針を固めた。これに対し業界は猛烈な反対活動を行ったが、結果的には1984年より課税(CIFと関税の合計額の1.2%)されることとなった。
その後石油石炭税に名称が変更され石炭も対象となった他、税率も断続的に増額され、2016年4月からは1,860円/トンとされることが決定している。
1990年8月、イラク軍は突如としてクウェートに侵攻してこれを制圧、イラクの19番目の州として併合したことを宣言した。この湾岸危機により、原油価格は一気に11ドル/bbl 高騰、またLPガスのFOB価格も7月90.46ドル/トンから11月には239.59ドル/トン(プロパン)へと跳ね上がった。
戦争の激化による供給不安を懸念した日協では、有事における対応を段階的に示した「LPガス備蓄の緊急時取り崩しについての考え方」を資源エネルギー庁に提出した他、LPガスの主要な積出港であるサウジアラビアのラスタヌラ港への入港停止規制の緩和要請等を行った。
こうした努力により、LPガス供給に対する湾岸戦争の影響は最小限に留められ、結果としてオイルショックのようなパニックには至ることはなかった。この戦争をきっかけとして、LPガスの国家備蓄建設に関する検討が開始された。
多国籍軍のイラク攻撃を伝える一般紙
1995年1月17日午前5時46分、阪神・淡路大震災が発生し兵庫県南部の神戸市とその周辺、淡路島などを中心に大きな被害をもたらした。ピーク時には停電約260万戸、都市ガス供給停止約86万戸、水道の断水約129万戸、電話不通は30万回線を超えた。
都市ガスの復旧作業が長引く中、LPガスは震災から約2週間後の1月末には消費設備の安全点検を完了し、いち早く復旧を果たした。震災後建設された仮設住宅にはLPガス設備が設置され、被災者の生活を支えた。
震災で倒壊した阪神高速道路
仮設住宅にLPガス容器を設置
湾岸戦争後、LPガスの安定供給体制強化が喫緊の課題となり、LPガス国家備蓄体制の整備に関する検討が開始された。そして1992年6月、石油審議会石油分科会液化石油ガス部会で取りまとめられた報告書において、それまでの輸入量50日分の民間備蓄(法定備蓄)に加えて、2010年までに150万トン規模の国家備蓄を実施する方針が答申され、本格的な準備段階に入った。
国家備蓄基地建設及び運営を担う組織として、1998年に石油公団及び会員会社9社等の出資により日本液化石油ガス備蓄株式会社が設立された。その後石油公団の廃止に伴い、石油天然ガス・金属鉱物資源機構(JOGMEC)に移管された。
イラク戦争によりLPガス市況は2002年末からCPが上昇し、3月にはプロパンで過去最高となる385ドルを記録したが、翌5月には一転して下落するなど、価格の乱高下に国内市況は混乱した。
日協は開戦と同時にイラク有事緊急対策本部を設置、直ちに初会合を開催し、LPガスの安定供給確保のための情報交換、当面の業界対応等についての検討を行った。また中原晟介会長より「当面の供給に支障はない」とのコメントを迅速に発表するなど、LPガスの安定供給に全力を挙げた。
その結果、湾岸地域からのLPガス供給については大きな支障もなく、50 日分の民間備蓄の存在による安心感から市場においても大きな混乱に至ることはなかった。
1992年3月23日、湾岸戦争で破壊されたクウェート・アハマディ港で、復旧後初の出港を祝う式典が開催され、第一船の「ガス・アルアハマディ」が三井石油川崎基地に向けて出港した
2002年6月、「安定供給の確保」「環境への適合」「市場原理の活用」等を基本理念として掲げた「エネルギー政策基本法」が成立した。これに基づき、2003年4月に総合資源エネルギー調査会に基本計画部会が新設され、「エネルギー基本計画」に関する審議を開始、同年10月にエネルギー 基本計画が策定された。部会には日協から中原晟介会長が委員として出席し、業界側の要望を訴えた。
その結果、エネルギー政策上これまで石油製品の一部として扱われてきたLPガスは、同計画において「天然ガスとともにガス体エネルギーとして一体的にとらえる」と明記され、ガス体エネルギーとしての明確な位置付けを獲得するに至り、業界の念願が叶えられることとなった。
総合資源エネルギー調査会
日本LPガス団体協議会、日本簡易ガス協会(現日本コミュニティーガス協会)、日本ガス協会のガス関連3団体により「日本ガス体エネルギー普及促進協議会(コラボ)」が発足した。LPガス・簡易ガス・一般ガスの枠を越えて、「ガスのあるあたたかい暮らしの提案」を基本方針としながら、広報や需要開発、高効率ガス機器の普及促進など、様々な活動を展開した。
また翌2006年6月にはコラボ、日本ガス石油機器工業会、キッチン・バス工業会、住宅生産団体連合会の4団体により「ウィズガスCLUB」を設立、キッチンバスメーカーとの連携によりガスの普及促進に取り組んでいる。
ウィズガスCLUB設立会見で手を組む草野成郎コラボ会長(左)ら参加団体の首脳
日協は新潟中越地震を受け、自然災害及び人為的災害時におけるLPガス安定供給体制確保のための対応として、「災害対策本部の設置規則」を制定、併せて「災害時におけるLPガス供給に関する相互支援協定書」を会員20社(当時)間で締結した。
この協定では、災害によって供給不安が発生する恐れがある場合、会員間相互の支援体制を迅速に構築することを目的として、全国を北海道から沖縄まで9地域に区分し、地域ごとに支援会員を特定した上で、支援を行う会員は被災基地に代わってLPガスの受入・出荷を行うこと等を定めた。
本格発売を目前に控えた2009年1月、新日本石油(現JX日鉱日石エネルギー)、アストモスエネルギー、東京ガス、大阪ガス、東邦ガス、西部ガスの6社は、家庭用燃料電池「エネファーム」の普及に向けた共同宣言を発表した。LPガス大手2社と都市ガス大手4社社長が一堂に会し、「エネファームで環境立国ニッポンへ」をうたった共同宣言書に署名した。
共同宣言でエネファーム普及への決意を表明
2011年3月11日午後2時46分、宮城県沖を震源とした国内観測史上最大のマグニチュード9.0を記録した東日本大震災が発生し、巨大地震と大津波による被害は岩手・宮城・福島の3県を中心とした東北及び関東地方の広範囲に及んだ。
この大震災によってLPガスの供給インフラも甚大な被害を受けた。東北地方の供給の要であった仙台ガスターミナルが津波で大被害を受けたほか、茨城県の鹿島共同備蓄では輸入船が着桟できなくなり、安定供給に支障をきたす事態にまで発展した。
日協では翌日に災害対策本部を設置して情報収集に当たった。調査の結果、一次基地4カ所、二次基地6カ所が大きな被害を受けていることが判明したことを受け、災害対策本部は相互支援協定の発動を決定し、LPガスの安定供給に努めた。
外での炊き出しに小型容器を役立った
転倒した容器を起こし点検するLPガス事業者
火災で黒煙を上げるJX仙台製油所
東日本大震災をきっかけとして、災害時の国備LPガス放出に関する法整備の必要性に関する認識が高まったことを受け、日協ではLPG議連等を通じて法改正の必要性を訴えた。この結果、改正石油備蓄法が施行され、災害時にも備蓄石油やLPガスが放出できるようになったことに加え、事業者による供給連携計画の作成・届け出など、災害時の石油・LPガスの供給に関する体制の強化が図られた。
LPガスは災害時でのエネルギー供給の「最後の砦」と位置づけ
料金規制の撤廃など参入自由化へ向けた詳細な制度設計を経た後、2016年4月に電力小売り、2017年4月にガス小売り市場の全面自由化へ
2030年の総需要を需要のピークを記録した1996年度と同じ1970万トンと想定。
国連機構変動枠組条約第21回締約国会議(COP21)でパリ協定を採択。 「世界の平均気温上昇を産業革命以前と比べて2℃より十分低く保ち、1.5度以内に抑える努力をする」世界共通の長期目標を掲げる。 全締約国が削減目標を5年ごとに提出・更新すること、共通かつ柔軟な方法で実施状況を報告しレビューを受けること等が盛り込まれる。翌年11月4日発効。
熊本地震が発生。マグニチュード7.3(本震)。最大震度7を記録。
太平洋と大西洋を結ぶパナマ運河の拡張工事が終了。6月26日に開通式典が挙行。 海上輸送日数は29日程度となり、それまで米国メキシコ湾岸からアフリカ最南端の喜望峰経由で要した45日程度より大幅に短縮した。
経済産業省、総合資源エネルギー調査会石油・天然ガス小委員会の第3回会合で、 LPガスの民間備蓄義務量を見直す方針示す。国内需要の低迷や調達源の多様化を踏まえたもの。
11月1日午後、米国ヒューストンで積み込み、パナマ運河経由で輸送してきたプロパン2.3万トンを、2日夕方までかけて倉敷LPガス国備基地に荷揚げした。 これによりLPガス国家備蓄は、1992年の制度創設25年目にして、目標の50 日分(約140 万トン)を達成。 国家備蓄50日と民間備蓄40日の合計90日体制となった。
経済産業省は12月4日付で石油備蓄法の施行規則(省令)を改正し、LPガス輸入業者に課していた民間備蓄義務50日分を40日分に軽減し、2018年2月から実施することとなった。 輸入・元売業界にとっては、民備50日制度から約40年、負担軽減を長年要望してきた悲願がかなった。
2015年に作成した「中長期展望」を全面改定し、2025年に1,500万~1,600万トンを目指す方針を発表した。 次世代への着実な発展へ向けた各分野の用途開発に積極的に取り組む考えを示した。 名称も「LPガス産業の2025年ビジョン」に変更した。
地球をモチーフとした球状体を、▽業界の発展▽業界の団結▽社会への貢献、を表す帯状の3本の線が包み込むイメージをデザイン化した。
エネファーム、発売から10年目で累計普及台数30万台を突破。
アストモスエネルギー、ENEOSグローブ、ジクシス、岩谷産業、ジャパンガスエナジーの5社が指定公共機関に指定されたことにより、災害応急対策に使用するLPガスタンクローリーなどを「緊急通行車両」として事前登録し、災害発生後の混乱した状況下でも円滑に標章(通行許可証)の交付を受けられる。 緊急交通路に指定された道路は災害発生時に一般車両の通行が禁止・制限される。 こうしたなかでも、今回指定された5社は被災地域のオートガススタンドや充填所などに向けて、輸入基地などから迅速なLPガスの搬送が可能となる。
クリーンで災害に強い分散型エネルギーというLPガスの特性をさらに高め、国連が掲げるSDGs目標に沿う持続可能社会実現に貢献するために、再生可能エネルギーとの共生、レジリエンスの強化、輸送用燃料の積極的活用に加え、新たなイノベーションを生み出し、社会実装に直結する取り組みを業界一丸で進めるため、「日協版SDGs」を作成し公表した。
「グリーンLPガスの生産技術開発に向けた研究会」(座長=関根泰・早稲田大学先進理工学部応用化学科教授)を立ち上げ、初会合を開いた。研究会は5回の会合を重ね、グリーンLP ガス合成(プロパネーション・ブタネーション)に向けた最先端の技術情報や知見が整理・集積された。
アストモスエネルギー、ENEOSグローブ、ジクシス、ジャパンガスエナジー、岩谷産業のLPガス元売5社は10月18日、LPガスのグリーン化に向けて「一般社団法人日本グリーンLPガス推進協議会」を設立、日協が事務局を担当することとなった。
日協を中心に経済産業省が参画して、官民をあげて幅広く協議し情報の共有化を図っていくことを目的に、「グリーンLPガス推進官民検討会」(座長=橘川武郎・国際大学副学長(当時))を立ち上げた。 検討会には流通団体や燃焼機器団体、公的研究機関なども加わり、7月26日に第1回会合を開いた。2023年10 月までに5回の会合を開き、研究開発状況や課題を共有した。